ゲシュタルト的人生論
【ゲシュタルト崩壊】
《「ゲシュタルト」は形態・姿の意》全体性が失われ、各部分に切り離された状態で認識されるようになる現象。
"ゲシュタルト崩壊"とは、同じ文字をずっと見続けていると「あれ?この文字ってこんな形だったっけ?」ってなる"アレ"のことである。
「ゲシュタルト」とはドイツ語にその語源を持ち、心理学の厳密な定義では「体制化された構造」のことである。
端的に言えば、「全体的な枠組み」だ。
ゲシュタルト心理学では、人間の知覚は個別的な要素ではなく、その「全体的な枠組み」に大きく規定されると考えられている。
しかしながら、"それ"を持続的に注視し続けると全体的な形態についての認知が低下してしまい、最終的にはその正確な形が分からなくなり、部分についてしか認識できなくなる。
なるほど、「ゲシュタルト」という言葉についてゲシュタルト崩壊しそうになってきた。
ただ、この現象は殊に文字に限ったことではない。
例えば、恋愛。
付き合いたての頃は「楽しい」「嬉しい」「幸せ」という感情が僕達の心を占める。
2人で手を繋いで歩いた下校路。
オチの微妙だった映画。
「家に着いたら連絡してね」のLINE。
彼が時間をかけて選んでくれたであろうアクセサリー。
彼女が振る舞ってくれた手料理。
弱いお酒で赤らめている頬。
窓越しに見るタバコを吸う彼の姿。
その全てが愛おしく、「幸せ」という「全体」を構成する。
些細な言葉や行動などの「小さな違和感」という「一部分」には気付かない、或いは見て見ぬフリをしたまま。
しかし、そんな毎日に浸っていると、その「違和感」が次第に大きくなって来る。
なんでいつも遅刻して来るんだろう。
なんで元カノとまだLINEしてるんだろう。
なんで「あの時奢ったのにどうこう」って話を後からしてくるんだろう。割り勘でも良いのにカッコつけて払ったのは貴方なのに。
なんでせっかくのお出かけデートなのに、私が準備してる間も寝てて、「もう準備出来たよ」って言ったら適当に準備済ませて出るんだろう。
そして気が付けば、どんな些細な事でも不満に感じて来る。
あたかも「一部分の不満/不安」が胸の内を占領しているかのように、それにしか目が行かなくなる。
「全体的な幸せ」が、崩壊を始める。
そして、ある時ふと思うのである。
「あれ?この人ってこんな人だったっけ?」
また、普段の生活にも言えるだろう。
高い志を持って臨み始めた受験勉強や、確かな希望を抱いて始まった大学生活。
僅かな、そして刹那的な変化や刺激、快楽はあれど、大まかには変わらない毎日。
その繰り返し。
朝起きて、学校に行き、友達と戯れ、そして寝る。
昨日も、今日も、明日も。
そしてある時不安になる。
「俺、このままで良いのかな。」
その不安は「全体」たる日常を蝕み始め、日常の先にある「将来」の輪郭がボヤけ出してくる。
ヤバい、書いてて鬱になりそうだ。
「バッドに入る」の"アレ"だ。
危ない危ない。
これもまた「文章を書く」という作業のゲシュタルト崩壊かもしれない。
僕は心理学の専門家でもなければ、恋愛のプロでもないし、メンタルヘルスケアのケースワーカーでもないから、特別な事など何も言えない。
でも、少なくとも毎日毎日「新しい一日」を過ごそうとしている。
本や映画、アニメ、マンガといった「自分ではない誰か」になる経験。
絵画や音楽などの「創造的活動の産物」に触れる経験。
普段話さない人や毛嫌いしてたあの人と話してみる。
なんなら、髪型を変えてみるとかでも良い。
日常に非日常を。
構造化された「全体」を壊しに行く。
日常という「ゲシュタルト」を、崩壊させていこう。