2000年後の君へ
僕の言葉を受け取ってくれる、2000年後の君へ。
僕は、21世紀の名も無き誰かだ。何者でもない。
もし君の生きる時代に学校教育という概念が残っていたとして、君の持っている歴史の教科書を隅々まで読んでも、僕の名前はどこにもないだろう。
そうなりたくはないが、たぶんそうなる。
そんな古に生きた有象無象の一人の戯言を聴いてほしい。
もしかしたら、君の心を少しだけ熱くさせるかもしれないし、あるいはそうでないかもしれない。
僕には好きな本がある。
2000年後の文化が僕の知るものではないかもしれないから、まず「本」というものを説明しなければならない。
本とは、情報伝達のために、文字や絵を用いて紙などに記録したものだ。
創作でもいい、史実でもいい、身の丈の想いの吐露でもいい、誰かの言葉の集合体。それが本だ。
そこには誰かの人生が詰まっている。
誰かの思想が、願いが、想いが、夢が、後悔が、悲しみが、そこに詰まっている。
そんな本の中でも、古代ギリシア詩が好きだ。
君からすれば僕の生きる時代も「古代」なのだろうけど。
「イーリアス」や「オデュッセウス」、「オイディプス王」、「オレステイア」などは君の時代にも残っているだろうか。
僕にとっては、紀元前の、約2000年前の文章だ。
君からしたら4000年前にあたる。
もしそんな埃被った文章が残ってるのなら、ぜひ手に取ってみてほしい。
別に、君の嗜好に適う内容ではないかもしれない。
心躍る物語でも、美麗な文章でもないかもしれない。
君の生きる時代では、僕が生きる時代よりもずっと多くの娯楽に溢れているんだろう。
ひょっとしたら君は読書なんてしないかもしれない。
しかし、どうか一度、地味で古臭い「本」というものを手に取り、そのページを開いてみてほしい。
そのとき君は、何千年もの昔を生きた人達の言葉を受け取っているんだ。
君がこの文章を読んでいる今その瞬間、そこから2000年前、僕も同じように、彼らの本を手に取っていた。
ただ純粋に、心が震えたんだ。
「僕は今この瞬間、2000年前の人間の言葉を、メッセージを、受け取っている。」
これは凄いことだ。
時間と場所を超越して、過去の人間が僕に語りかけている。
世界の在り方も、概念も、社会通念も、信ずるモノも、治める者も、あらゆる全てが変容しても、そこに残された「言葉」だけは変わらずに僕を待っていてくれた。
そして、僕がそこに辿り着くまでに、言葉を紡ぎ、残し、伝え、受け継いできた多くの「名も無き誰か」がいる。
それは遥か太古から続く人間の営み。
どこからともなく始まり、終わりを知らず流れ往く壮大な歴史の大河。
その片鱗に、あるいは全容に、僕は触れている。
これが心震えずしていられるだろうか。
2000年後の君へ。
僕は、君の生きる時代より遥か昔に生きた、名も無き誰かだ。
僕が2000年前から受け取った感動を、君に伝えたい。
僕は後世に名を残すような何者でもない。
僕を知る人間も、あと百年もすればこの世からいなくなる。
僕が生きた証が史実に残ることはないだろう。
僕は歴史という大海原の藻屑となって消える。
しかし、僕は確かに、21世紀の今ここに生きている。
僕の感情や思想、願いは、疑いの余地なく存在している。
僕はそれを2000年後の名も知らぬ君へ届けるため、この文章を書いている。
それによって、僕の言葉は時空を超えて君のもとへ届く。
君の心が少しでも動き、僅かでも2000年後の世界が変わるのなら本望だ。
もちろんそうでなくても良い。
少なくとも、僕の言葉が誰かに届くことが大事なんだ。
数ある文章の中から、偶然にもこの文章と出会い読んでくれた君のお陰で、僕も壮大な歴史の一部になれた。
ホメロスから、ソフォクレスから、アイスキュロスから、あるいは名も無き誰かから2000年越しに受け取った感動を、2000年後の君に託そう。
僕はあともう少しだけ21世紀を生きることにする。
時間も場所も超えた場所で、君と出会えてよかった。
ありがとう。
それでは、さようなら。