ナポレオンに憧れた少年

先生、お久しぶりです。

高校を卒業してすぐ、大学1年のゴールデンウィークに帰省した際にお会いしたのが最後ですから、もう3年ぶりになりますね。たった3年なのに、先生は一層老けられましたね。

え、僕もですか?顔が険しくなって、目の輝きも無くなっている?

そうですか、そうかもしれないですね。

思えば最近は鏡を見る機会も減っていました。

高校生の時はあれだけ外見を気にして、休憩時間のたびにトイレの鏡を見に行っていたのに、なんだか可笑しいですね。

 

今日は僕の話をしに来たんです。僕の過去の話を。

高校時代は進路だとか将来の夢だとか、先生とは未来の話ばかりしていましたが、今日は過去の話をさせてください。

先生にとっては、どうでも良いような話かもしれませんが、どうかお願いです。

気の利いた言葉も、慰めも、激励も要りません。聞いてくれるだけでいいんです。

 

僕は、この町に生まれました。

新幹線も通らず、東京へは高速バスで12時間以上もかかる、この町に。

サイゼリヤ松屋もLOFTも無い、無いものだらけの、この町に。

あるのは国宝の城と大きな湖、それとイオンくらいの、この町に。

唯一の観光名所ともいえる大きな神社は、10月には八百万の神様が集まるという言い伝えで有名だそうですが、老人しかいないこの町を象徴しているようで、なんだか哀れにすら思います。

 

父は建築士、母はパートの一般的な家庭の次男として、僕は生まれました。

父もかつては役所仕事を請け負う町一番の建設会社の社長だったそうですが、三位一体の改革で仕事がなくなり、もれなく倒産したそうです。

思えば、当時は珍しかったオール電化が配備された立派な一軒家から、冬は冷え込むトタン壁の借家へと引っ越した、幼少のあの日の記憶は、確かに残っています。

 

厳格で口数は少なくいかにも昭和気質の父と、優しくて寛容で、無償の愛を惜しみなく注いでくれた母。

父に直接叱られた記憶はありません。怒った時は不機嫌を露骨に態度で示す人間でしたから、家族はそれを察知しては粛々と過ごす日々でした。

母は腰が悪く、いつも松葉杖をついていました。父は不器用ですから感謝の言葉を母にかけることは滅多になく、だからこそ母は、無条件に自分を必要としてくれる子供たちを愛していました。

ですから、威厳の象徴である父に褒められた経験は少なく、一方で母は何でも僕を肯定してくれました。

自己愛が強くてプライドが高く、それでいて自己肯定感が低い、僕のこの歪んだ人格は、こんな環境で育ったが故なのかもしれません。

 

保育園を卒業したあと、僕は地元の公立小学校に入りました。

学年は30人、1クラスだけの小さな学校です。

そこに、僕の存在はありませんでした。

勉強は出来た方だと思います。ただ、足が遅かったのです。

たった二本しかない足を速く動かせなかった。ただ、それだけなんです。

足が速くて、ドッジボールが強くて、休み時間は校庭でサッカーをしている子が人気を得るという、恐ろしく本能的で合理的な小学生のコミュニティでは、僕はただの「出席番号21番」でした。

それ故なのか分かりませんが、僕は学校を休みがちでした。

朝になると布団から出ずに、適当に体調不良を訴えました。

母は仮病と分かっていて、休ませてくれました。

そしてお昼過ぎになると、病院へ行くんです。

母は仮病と分かっていて、車を出してくれました。

病院へ行った後は、本屋さんへ行って、好きな本を一冊買ってもらえるんです。

それが僕と母の「お約束」でした。

 

『ナポレオン』を読んだんです。

伝記の漫画です。

いつものように"病気"で休んだ日に、母が買ってくれました。

僕はそれを読みながら、鼓動を始めて7~8年しか経っていない小さな心臓が熱くなるのを、その拍動が強くなるのを感じたんです。

 

コルシカ島という田舎町の貧乏貴族の家に生まれ、絶対王政が敷かれていたフランスで帝政を樹立し、兵士から皇帝にまで成り上がった、ナポレオン。

そんな彼の生涯に自分を重ね合わせて、胸を躍らせていたんです。

 

 

 

小学生の頃、一度だけ家族旅行に行きました。

家族旅行と言っても、父の運転する軽自動車に家族5人で乗り込み、片道4時間をかけて広島へ行く、そんな程度です。

それでも、僕は驚きました。

そこは僕の知らない「都会」でした。

綺麗な街並み、煌びやかなお店たち、学校よりもずっと大きいビル。

まるで仮面ライダーのベルトやベイブレードなどの玩具が色鮮やかに並ぶデパートのチラシを見るような、そんな感覚に包まれました。

そんな眩い感情を抱く一方で、ドロドロした感情も抱いていました。

雨の日にひどくぬかるんだ校庭の地面のような、そんな感情です。

 

それは「恥ずかしさ」でした。

屹立するビルたちが、僕を見下ろしている。

道を往く人たちは何食わぬ顔で歩いていて、僕は建物を物珍しげに見上げている。

そんな対比の中で、「田舎者」である自分に、「外」を知らない自分に、恥ずかしさでいたたまれなくなったんです。

 

高校生になった僕は、東京の大学を目指していました。

この町から出たかったんです。

 

何一つ変化の無い「田舎」での日々。

平坦で、やけに車道だけ広い道を抜けて通う学校。

放課後も休みの日もデートも、全てがそこで完結してしまうイオン。

だだっ広い駐車場を併設したコンビニ。

自動改札も無く、駅員が自ら手動で切符を通す駅。

ライブに来たあのアーティストは、「絶対また来るからね」と言ったきり、この町には来ていません。

ただひたすらに、退屈だったんです。

 

この町には競争がありません。

高校受験の倍率なんて、1.1倍くらいです。

部活でも、4~5回勝てばインターハイに出られます。

”伝統ある”商店たちから成る地場経済は、ドンキやイオンなどの巨大資本を排斥するなどして大切に守られています。

この町には競争が無いんです。だから、成長もしないし、チャンスが無い。

商店街の一面がシャッターで閉ざされ、地元のケーブルテレビで「かつての栄えていたころ」が流れている様子が、それを物語っています。

 

地元で生まれ、地元の大学を卒業し、地元の子供たちに教える、負の再生産。

本家と分家に関するしょうもないお家問題。

「○○さん家の子どもさんは、広島大学へ行くらしい」「同級生だった○○は、今は市役所で働いているらしい」

そんな、親世代の会話から垣間見える、プライバシーなど存在せず、ゴシップと見栄だけの社交。

たった数十メートルの区画に広がる、古臭い虚飾のネオンがきらめく飲み屋街。

駅前の駐輪場にほど近い、高架下にあるあのテナントは、インドカレー屋がつぶれた後にラーメン屋が入って、また別のお店が始まるそうです。

 

緩慢で、怠惰で、封鎖的で、保守的で、伝統に固執して、ゆるやかに衰退していくこの町と心中する気には、とてもなれなかったんです。

この町でゆるやかに窒息していくのは、嫌だったんです。

 

都会にはチャンスがある。

僕は都会でこそ認められ、輝ける。

そう信じていたんです。

 

都会に出れば、「何者」かになれる。

そう信じていたんです。

 

先生と出会ったのも高校の頃でしたね。

大阪の大学を出て、貿易商社マンとして働いて、そして今はこの地元で英語を教えている、先生に。

先生はビートルズサブカルチャーをこよなく愛していて、バンドをやっていて、そして人間的にひねくれていた。そんな先生に、僕は少なくない共通項を見出して、よく相談をしていましたね。

先生が授業でよく話していた元カノの「リエちゃん」のお話、僕は大好きでした。

大好きだった彼女に、自らの過ちが故に別れを告げられて憔悴しきっていた高校生の僕に、元気をくれたんです。

 

結果として、東京の私学は叶いませんでしたが、大阪の公立大学へ進学しました。

一人暮らしを始めるために内見に回っている時は、ワクワクしましたよ。

そして、迷わず今の家に決めました。

理由は、「7階だから」。それだけです。

 

この町では、地元銀行の14階建ての本社ビルが、県一番の高層ビルとして町を見下ろしています。

たったの、14階建てです。

加えて、1階建てのボロ家で育った僕は、ずっと階段のある家に憧れていました。

だから、僕にとって「高さ」とは、文明と豊かさの象徴だったんです。

何軒か見た物件の中で、最後に訪れた今の部屋が一番高い所にありました。

築深ながらもフルリノベされているから外見は綺麗で、それでいて所々古さは感じるんですが、全く気になりませんでした。

「7階」というのは、僕にとっては十分すぎる理由なんです。

 

ベランダからはあべのハルカスがよく見えます。

日本一高い商業ビル。

なんだか僕の未来を暗示しているようで、胸が高鳴ったのを覚えています。

 

大学では、ボランティアサークルに入って「真面目」な活動をしながらも、コンビニの安い焼酎やワインをカラオケのドリンクバーのコーラで薄めて、「新宝島」に合わせて飲むような、そんなどこにでもある飲みサーにも入って、いわゆるな「大学生」をしました。

別に都会でなくてもいいような、そんな日々です。

それでも、梅田のオフィス街を歩く時、心斎橋のハイブランドが立ち並ぶストリートを歩く時、天王寺の巨大歩道橋を歩く時、僕は確かに「都会にいる」という実感を噛み締めていました。

本当に、しょうもない喜びです。

 

大学へ行けば、熱く夢を語り合い、政治や経済や社会課題などのマクロ的な事象について論じあえる友人ができると信じていました。

自分なりに最大限の努力をして入った大学なのですから、偉大なる大志を抱いて入った大学なのですから、当然そのようになると信じていました。

 

ですが、そんなことはありませんでした。

「一限切った」「ヤバい」「エグい」「癖がすごい」「~~なんよ」「代わりに出席しといて」「昨日の飲み会でアイツがアイツを持ち帰ったらしい」

誰が相手でも変わらないような、中身があるようでないような、そんな会話ばかりでした。

僕が思い描いていた「大学」とは、幻想だったのです。

 

それだけではなく、都会に出たことによって、地元にいては気付かなかった「差異」が、より色濃く鮮明になってしまったんです。

 

彼らは、遊び方を知っているんです。生き方を知っているんです。

 

高校の授業終わりには梅田や難波で遊んで、いろんなブランドを見たりして、休みの日にはUSJや美術館やお洒落な古着屋やカフェに行って、たまには電車に乗って京都や神戸に行ったりなんかして、スタバでは難しいカスタムを注文したりして、様々な文化的体験を積んでいるんです。

高校生のデートなんて、イオンに行って、駅に行って、後は家かカラオケでセックスをするしかないような地元とは大違いでした。

 

他にも、ネット上でしか名前を見たことのなかった日能研浜学園SAPIX鉄緑会に幼少から通ったりしているんです。

親が、誰もが知るような、CMで見るような会社に勤めているんです。

高校では、「落ちこぼれ」の子の救済枠として関関同立やMARCHの指定校推薦枠があるみたいです。

沢山の課題が与えられる勉強と、無駄に活動時間の長い部活の両立に勤しみ、それでも地元の国公立大学へ行けたら万々歳の地元とは大違いでした。

 

そんな格差を目の当たりにして、僕は憤慨しました。

何とか是正しなければならない、生まれた場所で人生の選択肢の数が変わるなんて許されて良いはずがない、と。

 

怠惰な学生生活を送りながらも、領事館で長期インターンをしたり、起業をしたりと、幾許かの挑戦を続けました。

僕は何者かに、田舎から皇帝になったナポレオンのように、なりたかったんです。

ですがそれらの挑戦は、「自分は優秀だ」と信じて疑わない僕に、現実を教えてくれました。

 

就職活動も早くから視野に入れていました。

「たぶん上手くいくだろう」という、根拠のない自信も持っていました。

大学3年生になり、僕は、就職活動で最難関と言われる企業たちを受けました。

当然、僕の大学から行った人は聞いたことがありません。

だけれども、それが僕を燃えさせたんです。

僕は何者かに、田舎から皇帝になったナポレオンのように、なりたかったんです。

 

現実は甘くありませんでした。

それなりに選考は進めました。それだけでもよく頑張った方でしょう。

それでも、ダメだったんです。

上には上がいたんです。

生まれたその瞬間から生じて、二度と埋まらない"差"を持った、彼らがいたんです。

 

親の仕事の影響で、中学校までをアメリカで過ごしたヤツ。

99×99の計算を、暗算で即答できるヤツ。

オーストラリアへ2年間留学していた慶応のヤツ。

東京大学で、その上に体育会の主将をしていたヤツ。

 

「あなたを採用する理由は?」

みんな、己の優秀さを、綺麗で優雅で逞しい経験を根拠に、熱弁していました。

 

「泥臭さです」

僕には、それしかありませんでした。

田舎の貧乏家庭に生まれ、いろんな逆境を乗り越えて、今の自分を創り上げてきた。

その自負があった。

いや、むしろ、それしかなかったんです。

 

熱い夢と、野望と、大志。そして醜く純粋なコンプレックス。

それを成し遂げたり、解消したりするために僕が持ち合わせている武器は、泥臭さというなんともダサくて、直情的で、定性的で、根性論なものだけだったんです。

 

英語も、算数も、OBもいない中での情報収集も、なんとか努力でカバーしたつもりでしたが、届きませんでした。

 

たぶん、僕はずっと渇いていたんです。

足りないモノ、自分が持っていないモノ、自分に与えられなかったモノばかり数えていたんです。

果ての無い欲求の砂漠。

満たされない。潤わない。

そんな感情が、僕を突き動かしていたんです。

 

今ある幸せに満足せず、今いる自分に満足せず。

常に上だけを見て、背伸びしきって、それでも届かないから必死にピョンピョン飛び跳ねている。

だから地に足がつかず、空回りする。

そしてガラ空きの足元には何も残っていないような。

それが僕なんです。

 

この町にいる時にはあれほど渇望していた競争に、僕は疲れていました。

この町を出てからの日々は、「戦いの日々」でした。

 

余暇を見つければ、すぐに帰省しました。

そこには癒しがあるから。

そこには肯定があるから。

そこには友情があるから。

そこには思い出があるから。

「逃避」とも言えたかもしれません。

 

母の中では、僕は食欲盛んな高校生で止まっていますから、沢山ごはんを作ってくれるんです。

質素で、素朴で、それでいて品数と量は多いごはんが並んだ食卓で、父が僕に話すんです。

 

「仕事の取引先の○○さんの子どもさんは○○大学へ行ってるらしい。だから、”ウチの子は大阪の国公立大学へ通ってるんです”と言ったら、”賢いんですね”と言われたんだ。」

 

田舎の親世代のコミュニティでは、こんな会話は日常茶飯事です。

子供というポケモンを使ったポケモンバトル。子供の功績を生贄にしたデュエル。

それでいいんです。

この町では僕の大学の知名度は高くないから、「大阪の国公立」と言われても、それでいいんです。それでも伝わらなければ、合格していた私立大学の名前を出しているみたいだけれども、それでいいんです。

閉塞したこの町で、緩やかに息を詰まらせていく彼らにとっては、それが重要なんです。

 

父に就活状況を聞かれました。

ゴールドマンサックスだとか、デロイトトーマツコンサルティングだとか、そんな名前を出してもピンと来ていないようでした。

カタカナが社名に連なる企業や、「ストラクチャードファイナンス」だかなんだかをやる仕事の内定よりも、地元には店舗の無いメガバンクの二次面接に進んでいることの方が、誇らしそうでした。

それでいいんです。

それで、いいんです。

 

 

先生。

僕は気付いてしまったんです。

たとえ僕が東京に住み、年収一千万を稼ぐビジネスマンになろうと、たとえ起業が成功して総資産何億の経営者になろうと、たとえ日本を動かすような政治家になろうと、この地元で同級生と結婚して、車を数分走らせたら両親がいるような環境で、休みの日には家族や友達とBBQをするような、そんな生活を送る”彼ら”には、人生の幸福度で勝てないということを。

競争の中に身を置く限り、幸せにはなれないということを。

 

先生。

先生はなぜ地元に帰ってきて、教師をしているんですか。

高校生の頃、この町の教育を変えたくて教師の道を考えていた時、僕は先生に相談しましたね。

先生は、「君に教師は勿体ない。変えたければ、君はもっと上でそれをやるべきだ」と言ってくれました。

ただひたすらに、嬉しかったんです。僕が「才能のある何か」と認めてもらえたようで嬉しかったんです。そしてそれを先生から言われたことが嬉しかったんです。

でも、なぜ先生は、なぜ先生ほどの人が、この町で英語を教えているんですか。

 

先生。

最近思うんです。

この町は、いいところです。

懸命に日々を生きる人達がいて、自然があって、競争が無くて、気を許せる友人がいて、大切な家族がいて。

緩やかな時間の中で、友人や家族に囲まれながら、生まれ育ったこの町のために働くのも悪くないなって、そう思うんです。

 

先生。

最近思うんです。

この町は、やっぱりどうしようもないところです。

しがらみばかりで、全てががんじがらめです。

教育水準も教育環境も劣っていれば、文化も娯楽も乏しい。

同級生のあの子は、女の子だからって大学進学に反対されて、それでも何とか県外の大学へ行っても、今度は「こっちで就職して、早く結婚しなさい」と言われているそうです。

こんな町に生まれ、選択肢を狭められ、あるいは最初から他の選択肢の存在を教えられず、「何者」にもなれずに終わっていく子供たちがいてはならないと、そう思うんです。

 

先生。

僕はもう21歳です。そろそろ22歳になります。

学生生活が、生まれてからずっと続いてきたモラトリアムが、そろそろ終わります。

夢を見ていたあの頃から時間は流れて、己の可能性を消費してきた。

「何者」かになるという心地よい生温さの夢に浸かっていられない年齢に、足るを知るべき年齢になってしまった。

そう思っていました。

 

でも、僕はまだ20代の始まりにいるんです。

先生、知っていますか。ナポレオンが皇帝になったのは35歳なんですよ。

それに僕はまだ、挑戦しきっていないんです。

本気で、本気で、本気で挑戦して、それでもダメだった時に諦めていいんです。

 

僕はもうじき、社会に出ます。

時計の針の動かないこの町から飛び出て、東京という欲望の砂漠に挑戦します。

上手く行かないことも、自分の力量の無さに喘ぐことも、あると思います。

それでも、挑戦を続けます。

その後になってやっと僕は諦めるんです。

そして、そうやって初めて、この町に帰ってきます。

 

この町に帰ってくるたびに、僕は僕と出会うんです。

逆境と停滞の中でもがいて、それでも己の可能性を信じて疑わない、高校生の僕に。

僕は、彼を救ってやりたいんです。

彼を救うことが、この町を救うことになると思うんです。

その手段は、市長なのかもしれませんし、知事なのかもしれませんし、議員なのかもしれませんし、小さな商店を営む店主かもしれませんし、英語を教える教師なのかもしれません。

 

足が速くなければ歌も下手で、絵も苦手で、勉強でも部活でも一番になれず、自分が「天才」ではないと気付いていても、「何者」かになるためにもがいている彼を、そして彼らを救うために、僕は生きるんです。

 

それが僕にとっての「何者」なんです。

 

先生。

今日はお話できてよかったです。

僕が本当の意味でこの町に帰って来た時、その時は一緒にお酒でも飲みましょう。

ぼやけたネオンがきらめく駅前の飲み屋街の、くたびれたのれんが架かった居酒屋で、お互いの「諦め」を語り合いましょう。

いつか訪れるその日のために、いつかこの町に帰ってくるために、僕はもう少し「都会」で挑戦を続けます。

終わりのない競争の中で、戦い続けます。

だから先生も、どうか御身体に気をつけてくださいね。

僕は僕なりに、もがいてみます。