「食べちゃいたいくらい好き」 ー食欲と性欲と暴力ー
君にだけ、僕の狂気を教えよう。
でも、この狂気は、愛であって、しかもとびきり純粋な愛なんだ。
しかも、僕だけの狂気じゃない。人間という種の狂気なんだよ。
僕はね、人間が好きだ。
「三大欲求」という生理的で原始的、かつ動物的な欲望を抱えながら、それらを秘匿し「我らのみが理性を持つ」と言わんばかりの社会生活を送り、しかしその「理性」を以って料理や避妊、低反発まくらなど、様々な工夫を凝らしてまで三大欲求を楽しもうとしている。
そんな人間という種が好きなんだ。
野生と理性。低次と高次。個人という文脈においても、種という文脈においても、そんな極端な自己矛盾を抱えた「人間」という存在は、なんと健気で愛らしいんだろう。
大前提として、人間は獣だ。
獣なのだから、暴力からは逃れられない。暴力だよ。
食と性なんて、暴力そのものだ。食欲も性欲も、暴力欲が文脈を変えただけなんだよ。
そうだろう?
例えば、食はどうだ。僕たちは肉も食う。魚も、野菜も食う。動物でも植物でも、そこには生命活動というものがある。それを奪ってでも、殺してでも、食らうんだ。
一方、性はどうだ。別に排泄欲だけなら、独りで射精でもしていればいいだろう。でも、そうじゃない。僕たちは誰かと交わりたがる。その欲望の根底には、汚したい、壊したい、奪いたい、そんな気持ちがある。これが暴力への衝動ではなくて、何だと言うんだ?
当然、食や性にまつわる行為が、「暴力」なんていう過激な概念から離れて、生命活動を維持するための機能的な行為という意味を持つことにも、間違いはない。
僕たちは食らう。意識的に、無意識的に。
「死にたい」と呟くメンヘラも、リスカ痕が残るその腕で箸を持ち飯は食う。
君はエヴァンゲリオンを観たことがあるか?あれはいい。人間の本質が描かれている。
最終作にあたる『シン・エヴァンゲリオン』において、シンジ君は、心を閉ざし、言葉も交わさなくなっている。出された食事にも手を付けない。
そんなシンジ君を案じて、アヤナミレイは、独りで塞ぎ込むシンジ君のそばに食べ物を置いていく。そして、シンジ君は、誰もいなくなってから、涙を流しながらそれを食べる。
これがどういうことか分かるかい?
どれだけ絶望していても、どれだけ死を望んでいても、腹は減るんだよ。
性欲も同じさ。
せっかくだからこれもエヴァを引き合いに出すけれど、旧劇場版の方は観たことがあるかい?『Air/まごころを、君に』だ。
その冒頭のシーンは、非常に有名だね。
精神崩壊して廃人同様になり、病室のベッドに横たわるアスカと、その横で見守るシンジ君。シンジ君がアスカの肩に手を掛けた瞬間、アスカの服がはだけて、その胸が露わになる。それを見たシンジ君は、なんと、その場で自慰を始めてしまうんだ。そして、精液のかかった己の手を見て、「最低だ、俺って」と呟く。
どうだい?己の肩に世界の命運が掛かっている状況でも、親しい大切な女がその精神を壊している状況でも、性欲は生じるんだよ。
そして、それが「最低」だとも理解しているんだよ。
理解していながら、いやむしろ、理解しているから、射精するんだよ。
素晴らしいね。人間そのものじゃないか。
食欲は、性欲は、人間を裏切らないし、
人間は、食欲を、性欲を、裏切れない。
そして、重ね重ねになるが、これらの欲求は、僕たちの持つ「暴力への憧憬」が形を変えたものなんじゃないかな。
そもそも、食欲も性欲も、「生命活動の維持」という機能的な意味を越えたところでは、同一の欲求だと僕は考えている。
かの文豪・芥川龍之介が、後に妻となる塚本文という女性に向けて綴った恋文がある。
その中の一節にね、こんなものがあるんだ。
この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします。嘘ぢやありません。
ここでの「食べちゃいたいくらい」は、果たして比喩としての表現に留まるのだろうか?
芥川は、文学的に巧妙な表現をするためだけに、この言葉を用いたのだろうか?
僕は、違うと思うんだ。
少なくとも僕は、言葉通り本当に「食べちゃいたい」と思う愛情の形を理解できる。
食べるとは、身体に取り入れ、自らの血肉とすることだ。
その「食べる」という行為への欲求と性欲との間に差異などあるだろうか?
性の視点から見た方が、直接的でわかりやすい。
考えてもみるんだ、幼い頃には「汚いから触っちゃダメ」と言われたような場所を、触る、擦り付けあうに留まらず、口に含みさえする。下品なまでに求めあい、貪りあう。
さらに女性は、物理的に「取り込む」ことさえできる。
これらの行為は、広義で捉える「食べる」行為と何が違う?
食べたい。触れたい。交わりたい。
境界をなくして一つになりたい。
食欲も、性欲も、その衝動の根底は同質なんだ。
たった一つの根源的な欲求が、時には食で、時には性で、外形的な行為を変えて表出しているだけなんだよ。
ところで、ゴヤを知っているかい?スペインの画家だ。
彼の絵に、『我が子を食らうサトゥルヌス』というものがある。
ギリシア神話におけるサトゥルヌス(サターン)が、自身の子どもの一人に倒されるという予言を恐れて、我が子を食べ殺しているシーンを描いたものだ。
面白いのはここからだよ。
この絵はゴヤにより描かれた後、他人の手によって修正されている。
では、どこが修正されたのか。
サトゥルヌスの陰部だよ。
もともとの絵では、サトゥルヌスの陰茎は勃起していたんだ。
子を食べながら、勃起させていたんだよ。
僕はね、まだ子を生していないから、我が子を食べるサトゥルヌスの気持ちをそっくりそのまま想像することはできないけれど、愛する存在を食べることは想像できる。
どうだろう、いざその状況になれば、僕がその行為者になれば、僕の身体には、サトゥルヌスと同様の反応が起こると思うよ。
考えてもみなよ。
愛する女性の、その血肉を咀嚼し、飲み込み、その血肉を構成する素粒子一つも残さず吸収する。同一になれるんだ。
その行為は、愛ゆえの破壊であり、愛ゆえの同化でもある。
究極の愛のかたちだろう?
新約聖書の中には、こんな記述がある。
イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものには、永遠の命があり、私はその人を終りの日によみがえらせるであろう。」
ーヨハネによる福音書6章53節と54節
僕はキリスト教徒ではないから、ここから得られる教訓や教義は分からない。
これを読んで、僕が一番最初に思ったのは、「食べることで、命は受け継がれるのだ」ということだ。
自分の中に、相手を内包できる。内包?少し違うな。一つに、同一になれる。
だから僕は、食べたい。愛する人を、食べたくて仕方がない。
こんな行為を異端だと思うかい?
狂っている、ありえない、そう思うだろうか。
ならば、カマキリはどうだい?
カマキリは、交尾の最中や後に、メスがオスを捕食することは有名だ。
メスがオスの頭部を嚙みちぎっても、交尾は継続する。
それどころか、オスは自身の頭部を失っても、交尾を継続することができる。むしろ、頭を食われた後のオスは、一層精力的に交尾を続ける。
当然、昆虫なのだから、「メスや子に栄養を与えるため」という、ただただ合理的な理由なんだろう。
虫なのだから、パートナーを食わんとする/食われんとする個体そのものには意思は無いかもしれない。だが、カマキリという種の全体としての意思が、そうさせている。むしろ、本能的に、遺伝子的に、そのような愛の形を取るんだ。
自然界という、社会性や理性なんていうものが存在しない純粋な世界に、この行為は確かに存在しているんだよ。
なんて素晴らしいことだ。
でもね、実際には、愛する人を食べることはできない。
僕たちは人間だからね、社会という共同体に身を置いているからね、法律がある。
「恋人を食べること」は禁止されていない。
でも、「死体を損壊すること」「人を殺すこと」は禁止されている。
だから、人を食べることはできない。
「一つになりたい」という欲求を、直接的かつ究極的に満たすことはできない。
じゃあどうするか。
そう、食欲や性欲という形に代替させ、それぞれを別個のものとしてカテゴリー分けする。
それどころか、あまつさえ、そんな欲求は「はしたない」ものだとしている。
特に性欲に関しては酷いものだ。
例えば、肌の露出について。
とある宗教では、「女性は肌の露出は避けるべきである」とする教義があるという。
信仰の自由は否定されるべきではないという一般論もあるが、同時に、女性の肌の露出を抑制するのは前時代的であるという風潮もある。
なるほど、女性が自由に着たい服を着て、肌を出したいだけ出せる。
僕は、ジェンダーの論客ではないから、その風潮に是非を唱えたいわけではない。
僕の関心があるのは、仮に「女性が肌を出しているのが進歩的」であったとして、ならば、露出の極致である「裸」は最も進歩していることになるのか、という点だ。
たぶん、ならない。社会がそうだとは認めない。
そもそも、アダムとイブは裸で創られ、智恵の実を食べて恥じらいを知るまで、裸で生活していた。つまり、神は、人間に裸を望んでいたことになる。
なのに、裸は、性欲は、禁じられているんだ。
面白いと思わないかい?
僕はね、これを悪いことだとか、直すべきことだとか言いたいわけじゃないんだ。
いくら社会がそのように存在していても、人間の内の三大欲求は、確かにあるんだ。
しかもそれは、「一つになりたい」という、狂気。
なにも僕だけじゃない。
恋人を壊したいから、汚したいから、傷つけたいから、セックスをするのは、僕だけじゃない。
それでも飽き足らなくて、食べたい、食べちゃいたい、一つになるために、と思うのは、僕だけじゃない。
これは、人間という種で共有する狂気なんだよ。
それなのに、みんな、澄ました顔をして社会で生活している。
そんな人間という生き物を、可愛くて健気だと、君は思わないかい?