過去は変えられる
「目指すべき港を知らぬうちは、いかなる風も追い風たりえない」セネカ
ご無沙汰してます。
性根の理屈っぽさが為にTwitterで自分の思想を垂れ流しがちな僕ですが、「それならばいっそのことブログを開設しよう」と思い、この度のはてなブログ開設に至りました。
最初の投稿なので何を投稿しようか迷っていたのですが、質問箱には「受験について教えてくれ」と多く寄せられた為、まずは軽く僕の受験生活を振り返りながら、その中で得られた信条と理念について軽く語りたいと思います。(教科毎についてだったり勉強法だったりは後々詳しく語るので、今回は自己紹介的なものだと思ってください)
また質問箱では「何大学に進学するのか」という質問が殺到し、僕自身もそれに答える事を長らく控えていましたが、まあもうこの際なのでついでに言っておこうと思います。
(具体的な大学名や試験の得点などを出しているので不快に思う人もおられるかもしれません。また、「そのレベルで勉強について語ってるとかw」と思われる方もいるかもしれません。ですが、決して他者への蔑みの念や自己顕示の念は篭っていない事を承知していただけると嬉しいです。)
注: 書き終わってみるととても長くなりました。本気で読むと疲れると思うので、ゆる〜く読んでやってください
すこし幼少時代の話をします。
僕が小さい時、母は努めて読み聞かせをしてくれていました。病気で学校を休む時には決まって病院の帰りに本屋さんで本を一冊買ってくれました。そのように育ったので、僕が本好きになるのは必至だったように思います。
さて、僕が本格的に受験を意識し始めたのは高2の冬休みだったように思います。これを早いと遅いと取るかは人それぞれですが、僕個人が思うには遅かったなぁと感じます。
中学時代はコンスタントに10位以内には入っていましたが、それで天狗になり高校受験ではロクに勉強もしませんでした。(別に「俺全然高校受験で勉強せんかったわ〜w」とかいう自慢ではありません。中3という勉強すべき時にしっかり勉強して合格した人の方が偉いしカッコいいに決まってます。)
高校受験でロクに受験勉強をしなかったため学習習慣というものも勉強の仕方というものも身に付かないまま高校生になってしまい、大学受験を意識するまでタダの1分も家庭学習をやっていませんでした。定期テストの欠点の数を誇るような輩でした。
ですが、そんなヤツの脳内はこうです。
「ゆーて俺はやれば出来るw 地頭は良いしw」
バカである事がカッコいいと思ってるけどプライドは高いタイプです。大抵こういうヤツは何故か現代文だけやたら出来ます。しかし古典は出来ません。数学は論外。割と皆さんの周りにも居ると思います。
高2の冬になると、二年生も進路について本格的に考える事を求められるようになります。
考えました。
僕は何になりたいのか。
将来何でお金を稼ぎたいのか。
僕は何が好きなのか。
考えて得られた結論は、
「僕は文章、そして言葉が好きだ」
という事です。
そしてそれを職業として具体的に突き詰めていき辿り着いたのがコピーライターでした。
広告やキャッチコピーを書く仕事です。
「NO MUSIC, NO LIFE」「お口の恋人」「そうだ、京都いこう」「場所に届けるんじゃない、人に届けるんだ」
聞いたことありませんか?こういったものを創る仕事です。
ちなみに「小説家には塀の中でもなれる」が僕の考えだったので、最初から小説家を目指す事はしませんでした。
さて、それを踏まえ僕は広告代理店への就職を目指すようになります。電通や博報堂などが有名ですね。
では、それを実現するにはどの大学が良いのかと思った時に出会ったのが、早稲田大学 文化構想学部です。早稲田には文学部もあるのですが、それとはちょっと異なります。
一年生の時から早稲田大学に憧れがあった上に、元々数学が苦手で、一方国語が割と学年で一桁台でいられるくらいの武器ではあったので、「逆転合格を目指すには私立しかない」と思って早稲田を目指すことにしました。もちろん文系普通進度クラスから早稲田は無謀な挑戦です。
また、僕の家は裕福ではありません。多くは語りませんが、奨学金だって借りていますし塾にすら行けなかった。まだこれから高校生になる弟もいる。なので私立大学、ましてや東京の私大なんて到底憚られる選択肢でしたし、親も望んでいない事は子供ながらに察していました。
ですがどうしても憧れの早稲田に行きたかった。その上、精神的にまだまだ未熟だったために「俺の人生が家の経済的な事情で左右されるのは納得がいかない」と自分勝手な気持ちもあり、親に懇願しました。
親は快諾とは言わないものの、許してくれました。
ちなみにこの段階での具体的な得点数(2月早期マーク)は、合計が6割に届かないくらいでした。かなりの雑魚です。早稲田どころか地元の国立も危うい。
ですが国語は8〜9割、英語は7割5分とあったので、早稲田への可能性は感じていました。
さて、目標が定まり僕が何から始めたかと言うと、データ分析からです。詳しく説明しますと、過去の北高の進学実績の数字を調べて自分が北高で何番目に位置していれば良いのかを割り出したのです。
北高からは毎年3〜6人ほどが早慶に合格している。その中には東大京大などを受ける人が滑り止めとして抑えている数も入っているし、文理合わせての数でもある。
その結果僕が辿り着いた結論は、国英社の三科目では文系でブッチギリの一位でなければならないというものでした。こうして僕の本格的な受験が始まります。
学年が上がり三年生になりました。
北高では春休み明けの校内模試が待ち受けています。僕は国英社の三科目で校内偏差値60以上を目指していました。
結果は英語58 国語64 世界史52
まあまずまずです。それまで校内偏差値50くらいだった英語が冬の間でここまで伸ばせたのは大きな成果でした。問題は世界史ですね。
夏休み。
「夏までに志望校の一個下のレベルの大学で合格点が取れると良い」という一個の目安があります。なので僕は夏休みが終わるタイミングで明治大学の問題で合格点を取る事を目指して勉強していました。
それはそれは勉強しました。
周りの国公立志望の友達は5教科全て頑張っているのです、贅沢にも国英社の三科目だけに時間をつぎ込める僕はそりゃ伸びる、むしろ伸ばさなければならないと思っていました。
ちなみに夏までの模試の判定で、早稲田がE判定より上なのは見たことありませんでした。
ひたすら基礎を固めた夏休みを終え迎えた模試で、初めてC判定を貰う事ができました。私立とは傾向も形式も全く異なる問題ではありましたが、とても嬉しかった事を覚えています。
しかし、ここは英語がなかなか伸びにくくなり始めたタイミングでもありました。元来全く勉強してなかった人間が一気に勉強し始めた時の伸び代が尽きてきたのです。
学園祭を終え秋になり、進路を確定しなければならない時期になりました。この時期になり僕の意志は揺らぎ始めていました。
英語が伸び悩んでおり、もしかしたら早稲田レベルまで持っていけないかもしれない。世界史も夏でセンターが9割超えない(充分すぎる数字な気もしますが早慶を目指すならかなり厳しい)。そして何より、親に迷惑をかける事になる。僕は前述の経済的な事情もあり浪人が出来なかった事も迷いの要因の1つでした。
そのタイミングで、学園祭後に受けた記述模試が帰ってきました。早稲田は相変わらずC。ですが、何となくで書いていた岡山大学がA判定でした。これには正直自分もビックリしました。
それを受けての面談で以下のような提案をされました。
「国公立大学がA判定が出ている。これは北高の国公立に向けたカリキュラムの賜物。自分でも何となく感じていると思うが、北高で私立専願の勉強をするのはしんどいと思う。この先、国英社を早稲田レベルまで伸ばすのと、全く手を付けていない数学理科をセンターレベルまで伸ばすのだったら、後者の方が可能性があるのではないか。少し考えてみてほしい。」
ここで誤解を招かないように言っておくと、担任の先生は決して僕が早稲田を受ける事に反対していた訳ではなく、むしろとても応援してくれていました。あくまで「現実的な選択肢」を提示してくれただけなのです。
悩みに悩んだ末に、一転して僕は国公立大学を目指す事にしました。10月の終わりです。
やはり、親に迷惑はかけられませんでした。
その頃には夢も広告代理店から"ワールドワイドなビジネスマン"に移ろってきました。それは木村先生と1対1で受けた倫理政経の授業にとても影響されていました。授業の政治経済の話から発展して、将来の夢や職業について語り合い、もはや面談でした。担任よりもその時間は多かったです。
木村先生は行事毎でリーダーをしがちな僕の特性や、淡々とした作業よりもクリエイティブな仕事で発揮される僕の真価を見抜き多くの指針を示してくれる中で、僕の中で総合商社やコンサルティングファームに対する憧れが強くなりました。それ故の神戸大学でした。
ただ、神戸大学といえばかなりの難関大学です。「やっぱり国公立にする」のノリで合格出来るような大学ではありません。でも、目指すなら高みが良かった。
国公立に方向転換してからの勉強はさらに過酷でした。
早稲田を目指していたお陰か国英社はかなり出来上がっていましたが、全く手を付けていなかった数学理科を神戸大学レベルまで2ヶ月で仕上げるのは本来不可能です。
ですがやるしかありませんでした。
ここでの具体的な数字は、マーク模試で
国語9割
英語9割弱
世界史9割弱
倫理政経8割弱
数学1A2Bともに2〜3割
理科基礎ともに3割
でした。
数学理科が壊滅的です。
まずはセンター試験で8割を目標にしました。
それからは圧倒的に数学理科に勉強時間をつぎ込みました。数学の先生にはそれまで内職をしていた事も頭を下げ、質問に行きまくりました。
ですが12月になっても700点台に乗ってくれない。この時期はマジで泣きました。
志望を国公立に変える直前に受けた模試が帰ってきて、それで早稲田がA判定だった事が、より自分を落ち込ませました。文系三科目でも目指していた一位でした。
思えば岡大がA判定が出たあの模試も二次試験科目による判定のため、国語と英語のみによる判定だったのです。そりゃその二科目ならそうだろ、何が「北高のカリキュラムの賜物」だよ、と憤りに満ちてもいました。
しかし、決断したのは自分なのです。ここで他人のせいにしたら多分何も成し遂げられない。
賽は投げられた。親に迷惑をかけないためにも、何としてでも国公立に受かるしかない。
その後の冬休みは修行僧のような生活でした。センター本番は昼食後に眠くならないように昼食を軽くするため、それに胃を慣らすために食事量を減らしたりもしました。
結局最後の模試まで8割に届く事なく本番を迎えました。
しかし、自信はありました。
めちゃくちゃ、かつてないほど、圧倒的なまでに勉強したからです。正直センター前は「不安」というよりも「楽しみ」が勝っていました。
センターを終えました。なんとか無事に、目標の8割を大きく超える87%という得点を取る事ができました。
ホッとしました。
神戸大学よりも1つ上のレベルに出願出来そうな点数でもありました。ですが、ここでも僕は1つ懸念がありました。
数学です。
旧帝大といわれる大学群では、文系であっても全ての大学で二次試験に数学が必要になってきます。10月からは必死で頑張ってきましたが結局センターレベルの対策までしか出来ず、センターは何とか耐えたものの二次試験レベルには手が回る事なく、問題を見ても解答の指針すら立たないレベルでした。
周りの受験者はみな、兼ねてから二次試験対策をしっかりとしており、僕のように一科目でも壊滅的に出来ないと合格は難しい。
迷いに迷った挙句、僕は安全策を取りました。二次試験が国語・英語という僕の得意科目で戦える大阪市立大学 法学部に出願する事にしました。そうは言っても今年の市大のセンターボーダーは80%という厳しいものでしたが、それでも神戸大学や大阪大学よりは遥かに可能性がありました。
総合商社の厳しい学歴フィルターは何とか突破できるし、公立大学という事で学費も少しだけ安い。そして近畿圏で島根から遠くなく生活費も抑えられる。
それらが僕の決断の手助けをしました。
二次試験に向けてはひたすら英語と国語を勉強しました。
後輩たちに1つ教える事があるとすれば、センターから二次試験まで意外に時間があるという事です。
授業もなくなり、日に1個か2個の講座を受けるだけで後は自習です。勉強すべき科目数も少なくなります。
今となれば「数学も出来たのでは」と思わない事もありませんが、受験でたらればは禁物です。選んだのは自分なのです。
二次試験を終え、何とか合格をいただきました。
こうして僕は、春から大阪市立大学 法学部に進学します。
この文章で僕が伝えたい事は、「俺はこんな点数取れたんだぜw」という自慢でも、「ゆーて俺元々私立志望だったしw」という言い訳でもありません。
むしろ逆です。
過去の決断を正解にするのは自分
ということです。
「あの時の自分本当どうかしてたわ〜w」とか言って元恋人を黒歴史としてゴリゴリにディスる人間も、「北高ほんとクソ」と言って学校の教育カリキュラムを批判する人間も、みんな分かっていません。
選んだのは自分なのです。
現在の自分の姿と理想とする自分の姿とのギャップに感じる不満や不安を周囲や環境のせいにして自分を慰めているに過ぎません。
過去は変えられませんが、過去の意味付けは自分で行えます。
受験を終え、自分がした選択の全てに誤りはなかったと思っています。
僕は勉強は素晴らしいものだと考えています。
僕は裕福な家庭に生まれていない。
僕は足が速くない。
僕は絵が上手くない。
僕は歌が上手くない。
僕は何かで1番になった事がない。
それでも、皆に(ある程度)公平な手段である勉強を頑張れば、自分の人生を自分で切り開くことができる「可能性」が生まれる。
受験勉強は、楽しかった。
自己実現に努めているその時間は、とても充実していた。
取り留めもない文章になりましたが、僕の文章が、言葉が、これから受験を迎える人の背中を押す風にでもなればと思います。
焦る事なく されど立ち止まる事なく、頑張ってみてください。