恋愛資本主義の残酷な社会で
僕たちの生きるこの21世紀は、資本主義の下に成り立っています。
自由競争によって発展した社会の中で、僕たちは生きています。
生を受け、学校に通い、友人を作り、大人になっていく。
その過程で僕たちは恋をして、愛し愛されることも経験します。
この恋愛というものは、僕たちの人生にとって、幸福にとって、不可分なものです。
今日の社会では、(おそらく大半の人が)自由に人を好きになり、交際し、結婚することができます。
恋愛は自由なのです。
資本主義と同じく、自由競争のいわば「戦い」なのです。
戦いだからこそ、傷つき、悲しみ、喪失することもあります。
恋愛は残酷な一面も有しています。
奪い合い、傷つけあう自由恋愛が生み出した言葉たち。
僕は、「恋愛は資本主義と類似するものである」という仮説を立てました。
二者間の関連性を考察することで、この残酷な恋愛資本主義の社会を生き抜く術を考えていきます。
※本来であれば、恋愛を語る上でLGBTQなどの性的マイノリティの方々の存在を無視してはいけません。ですが、僕はそのような方々への知識が至らず、そうであれば語るべきではないため、ここでは「ストレート」の方々を想定しています。
はじめに、人間の歴史は政治体制の歴史であり、政治体制は経済体制の在り方でもあります。
日本をはじめとした多くの諸国家の経済システムとして、資本主義が採用されています。
当然、社会主義や共産主義など他の考え方もあり、異なる主義を掲げる国家同士の対立は今なお続いていることは留意しなければなりません。
しかしながら、少なくとも、産業革命を起点に欧米で確立され、明治維新期の日本にも持ち込まれた資本主義は、今日の経済発展をもたらしました。
資本主義の基本原理は「自由競争」です。
「利益を得る」という目標を正当化し、市場における生産者と需要者の間の経済活動を自由としたことで、経済と産業は成長してきたのです。
この資本主義がもたらしたのは、成長だけではありません。
「格差」をももたらししました。
自由競争の下では、富める者はより財を成し、貧しいものはより一層貧しくなっていきます。
恋愛はどうでしょう。
かつては結婚とは「家と家」、もっと遡れば「ムラとムラ」、さらには「国家と国家」の話でした。
身分や出自、家庭によって、多くの制約がありました。
お見合い結婚なんてのも、その一部分でしょう。
恋愛に個人の自由意志など介在する余地はありませんでした。
時代は流れ、現代では、誰もが自由に相手を選び、自由に交際することが出来ます。
つまり、恋愛感情や個人が「資本」となり、その自由化・流動化が進んだと言えるでしょう。
最近では、tinderやタップル等のマッチングアプリの隆盛も凄まじいものがあります。
これも「資本」の流動化の極致でしょう。
思えばマッチングアプリとは不思議なものです。
本名かどうかも分からない、語られた経歴が真実かも分からないような、その日あったばかりの人間と食事へ行き、相手が誰だろうと変わらないような会話をして、相手が誰でも良いようなセックスをする。
セックスなんて言ってしまえばただの「粘膜の接触」ですが、その行為に与えられる意味が変質してきています。
それではここで少し、なぜマッチングアプリが流行し、身体を重ねる行為の神聖性が薄れてきたかについて、「恋愛資本主義」の観点から考察してみます。
まず、ここでの分析対象を「tinder等を用いて、セックスに没頭する人たち」と定義します。
そんな彼ら彼女らの行動の動機には、二つが考えられるでしょう。
①「性欲を満たす」という身体的なもの
②「承認欲求を満たす」という精神的なもの
特に②です。
上述したような従来の恋愛の在り方では、恋愛や結婚、ひいては人生それ自体は家族やムラで共有するものであり、一種の全体主義の下にありました。
そのような中で、ムラや家族の解体が進み、個々人間の精神的なつながりが薄れていくと、どうでしょう。
個々人の分断と、それに伴う孤独が生まれます。
また、「嫁入りするまで純潔を保たなければならない」なんて考えも消滅していくでしょう。別に「嫁に行くこと」は「相手の家庭へ娘を捧げること」ではなくなりますから。
つまりは、性行為に対する抵抗感は薄れる一方で、そこから得られる「承認されているという感覚」の必要性は高まりました。
その結果、人間が従来より持っていた生物としての「性欲」という要因に、「承認欲求」という精神的欲求が加わり、それらへの解決策としてtinderが爆流行りした、と考えられます。
さて、「資本」の流動化が進展した結果、恋愛資本主義社会はどうなったでしょうか。
資本主義社会では、持てる者と持たざる者の格差が顕在化しました。
恋愛資本主義でも同様に、モテる者とモテない者の格差が拡大しました。
自由化は競争を生み出します。
選ばれるものと選ばれないものが生まれます。
残酷なまでにリアルな競争が始まりました。
さて、ここでの「モテる者」をどう定義するか。
自分に恋愛感情を抱く異性の数が多い者、付き合った恋人の数が多い者、経験人数が多い者。まあどれを用いたとしても、ここでは文脈上の相違は無さそうので、単純に「モテる者」としましょう。
自由競争が可能となった恋愛市場。
家庭などが恋愛の相手を用意することもなくなります。
そうなると、単純に容姿、家柄、所得、学歴などの要素の及ぼす影響が強くなります。
これらは生来のもの、つまり自分の力ではどうしようのないものであることが多いです。
ある意味、生まれながらの「差」は一生覆せないという点においても、資本主義と共通しています。
しかし、僕の考える格差の本質はここにはありません。
資本主義と同じく「持てる者がより持てる」という構造にあります。
資本主義でも恋愛でも、10を100にするより、0を1にする方が遥かに難しいのです。
たとえば、0円から100万円を創るには多大な努力が必要です。
時給千円でバイトをしましょうか、不用品をメルカリで売りましょうか。
時間を売るか、労働力を売るかしなければなりません。
一方で、100万円を1千万円にするのは比較的容易です。
投資でも良い、事業を始めるでも良い。
元手があればあるほど、資産は膨らんでいきます。
恋愛でも同じことが言えます。
僕は「モテる人」の条件として、「余裕感」が挙げられると考えています。
では、男性で想定しましょうか。
女性経験が増えれば増えるほど、女性とのコミュニケーションの仕方やデートでの振る舞い方が分かってきます。
また、必死感も無くなるでしょう。
「別にこの子と上手く行かなくても、まあ別の子がいるし」という考え方ができます。
別にたかが一人に嫌われてもいいわけです。
これらが総合した結果、「余裕感」が醸し出され、いわゆる「女慣れしている」状態になり一層モテていきます。
一方で、モテない童貞男性はどうでしょうか。
まず、女性とのLINEの仕方が分からない。
会話が途切れないように、盛り上がってる感が出るように、無駄に語尾に「笑笑」をつけたり。返事が遅いと不安になって追いラインをしたり。
女性と食事に行くのであれば、お店の選び方が分からない。
そもそも店のレパートリーが無い。
「サイゼリヤで喜ぶ彼女」がTwitterで炎上したのも記憶に新しいですね。
まあそこまでは無いにしろ、例えば個室なのかそうではないのか、座り方が向かいになるのか横並びになるのか、照明は明るめなのか暗めなのか、駅からどれくらい歩くのか。
食事を終えた後に待ち受ける、「この後どうする?」なんてラスボス戦のようなものです。
そもそも女性経験が豊富であれば、何となく心を許してくれているのか否かが分かりそうなものですが、彼らはそうではありません。
いざ誘うにしても「ホテルに行こう」なのか、「ちょっとゆっくりできる所で飲みなおそう」なのか、「俺んち猫いるんだけどさ」なのか、はたまた何も言わずホテルの前まで行くのか。
頭の中で何度も何度もイメトレをして、それでも言えないのです。
女の子に「うわ、キッショ」って思われるのが怖い。
だって彼らにはその人しかいませんから。たった一人を失うわけにはいかないのです。
仮に上手く”そういう雰囲気”までいけたとしましょう。
今度はそこからの「持っていき方」という壁にもぶち当たります。
ここでダラダラとグダったり、もしくはキショい誘い方をしてしまう。
だって経験が無いのですから。
そうして何もせず、「良い人」で終わってしまう。
「誠実な人が良い」なんて言いますが、それとモテないことは別です。
勇気が出なくて誘えない人は「誠実な人」ではありません。
女性を前にしてキショいムーブを繰り返す人は「誠実な人」ではありません。
このようにして、モテる者ほどよりモテていき、モテないものはよりモテなくなっていく。
「モテる」というのは商品として需要が高い状態であり、一種の希少性です。
市場において、需要が高いものほど価格が上がり、より需要が高まることは皆さんのご存じの通りです。
資本主義では私有財産は禁止されていません。なので富の独占が起こり得ます。
恋愛でも同様です。
結婚してしまえば不倫は法的に縛られますが、恋愛一般においてはその限りではありません。
浮気をしようが、人の男/女を奪おうが、付き合わずに「都合のいい相手」としてキープしようが、付き合う前にセックスしようが自由です。
何人もの異性と関係を持とうが自由なのです。
当然、倫理的に非難されることもあるでしょうが、これといって何かしらの罰則を与えられるわけでもありません。
また、資本主義の問題点は搾取が起きやすいい点にもあります。
「賃金を得たい労働者」と「利益を追求したい使用者(=企業)」がいたとして、優位な立場にある使用者が一方的な条件の下で労働者を働かせる、つまり搾取が発生します。会社は求職者を非正規雇用として働かせ、気分次第ですぐ切れます。
ここでセフレというものを考えてみましょう。
そこには「愛情を得たい女の子」と「性的快感を得たいだけの男の子」がいたとします。往々にして前者は後者に恋愛感情を抱いています。
男の子は優位な立場を利用して、深夜に呼び出しちゃいます。
「今からウチこれる?」
女の子はお風呂上りにも関わらず、健気にもメイクをして出かけます。
部屋では適当にネットフリックスでも見た後、怠惰で、退廃的で、無味乾燥したセックスをします。
女の子は冷たいシーツに身をくるみ、ベッドで自分に背を向けスマホを構う男の子に聴きます。
「彼女とか作らないの?」
「う~ん、今はそういうのいいかな」
「そうだよね」
分かりきっていた答えです。
それでも、これまで何十回も飲み込んできた言葉が、ついにこぼれてしまいました。
「私たちってさ、どういう関係なの?」
男の子は素直に「ダルいな」と思いました。
当初は駅まで送っていたけれど、今では玄関先でのバイバイです。
男の子は女の子を切りました。
これが搾取でなくして、一体何なのでしょう。
ところで、「恋愛感情」や「性的対象としての身体」の資本化の進展は、パパ活の流行も説明できるかもしれません。
当然、肉体関係を伴うパパ活の蔓延には、経済や福祉、教育など様々な要因が絡むので、一概にその理由を説明できるものではないでしょう。
ですが、ここでは一つの試みとして、恋愛資本主義という観点からの考察をしてみます。
上述した通り、その人にとっての「社会」は、家庭やムラなどよりもっと大きなものになりました。それに伴って、集団で共有されていた処女性が神格化されることも無くなってきました。
個人の恋愛感情や身体は、あくまで「個人が自由にできるモノ」として、資本化されていきます。
つまり、女性にとっては自分自身を「資本」とすることができます。
一方で、これも上述した通り、格差の顕在化は「モテない男性」を色濃くしました。
ここでお互いのニーズが一致します。
近年、より議論されるようになった「女性の権利」。
女性は家庭や古い社会規範の束縛を逃れ、独立した意思決定という自由を獲得します。
これまでは社会通念上でも構造上でも難しかった「自己の資本化」が個人単位で容易になりました。
だからこそ、「自分自身」を武器にお金を稼ぐことのハードルが下がったのでしょう。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「パパ活は自己決定に基づいている」と一まとめに切り捨ててしまうと、偏った自己責任論に落ち着き、女性の性的搾取問題に対して一種の思考停止状態に陥ってしまうことです。
あくまで、一つの観点から見た「現象」に対しての考察であり、その中にある「個々人の人格と背景」は無視してはなりません。
資本主義との共通点は他にもないでしょうか。
日本の資本主義では生産と競争の自由化を進めた結果、低成長に陥ってしまいました。
恋愛ではどうでしょう。
先進国では恋愛の自由化が進展した結果、低出生率という課題にブチ当たっています。
当然これにも、経済や福祉のような政策的アプローチの影響が大きいのでしょうが。
さて、これまで書いてきたように、恋愛の自由化は競争を生み出しました。
それによって、奪い合いや格差の拡大は勢いを増し、皆が消耗していくようになりました。
僕自身、足が速くなかったため小学生時代は”ゴミ”のような扱いを受けました。
容姿も良くなかったため、学生時代は当然モテることは無かった。
学歴という面でも、「男は神戸大以上じゃないとね」なんて言われたこともあります。
彼女を寝取られたこともありました。
当然、逆もあります。好きでいてくれた相手を傷つけたことだってあります。
なんと愚かだったんでしょう。
傷つき、傷つけ。
僕たちは競争の中に生きている。
仮に資本主義というシステムの中で生きるのなら、そこでの成功は「たくさんお金を稼ぐこと」になります。
そのためには、受験、就活、社内政治と、駒を進める毎にふるい落とされ、残った上澄みとの競争を勝ち抜いていく必要があります。
しかし、そこには終わりが無い。
果たして、それが幸せなのでしょうか。
仮に恋愛資本主義というシステムの中で生きるのなら、そこでの成功は「たくさん異性からの恋愛感情を得ること/経験人数を増やすこと」になります。
そのためには、多くの人を傷つけ、多く傷つく必要があります。
少なくとも、頑張って「最初の1」を稼ぎ、あとは異性慣れするなりtinderをするなりして経験を積めば、記号としての「人数」は増えるでしょう。
しかし、そこには中身が無い。
果たして、それが幸せなのでしょうか。
僕が思うに、この競争社会で幸せになる方法は、競争から降りることです。
口座に並ぶゼロ。身体を重ねた相手の人数。
それは誰かから奪ったゼロ。それは誰かを傷つけた数。
そんな記号ではない、定量的ではないモノに価値を見出すのも、一つの幸せのなり方ではないでしょうか。
僕たちは競争の中に生きている。
ただ一人の好きな人に振り向いてもらえなくて苦しむこともあるでしょう。
恋人の心を惹き付け続けるのに苦労することもあるでしょう。
このような”競争”に乗っかって、”競争”に勝つには、”競争”を攻略するしかない。
”競争”の中に身を置くならば、傷つける覚悟を、傷つく覚悟を持つしかない。
僕たちは競争の中に生きている。
少なくとも、この恋愛資本主義では自由な恋愛が出来る。
自由だからこそ、残酷で、美しい。
そんな戦いの21世紀を、共に頑張って生きていきましょう。