誰かの記憶に残るということ

皆さんは、この世で最も重く、残酷な刑罰は何だと思いますか。

 

一生涯に渡って自由を奪われる終身刑でしょうか。

人知れず拘置所の一室でひっそりと命を奪われる死刑でしょうか。

死刑の中にも多くの種類があります。

江戸時代の鋸引き、中国の凌遅刑古代ギリシアのファラリスの雄牛。

人間とは恐ろしいもので、「ただ殺す」だけでなく、極限まで恐怖を与えて殺す方法をいくつも生み出してきた。

 

しかしながら、僕の思う最も恐ろしい刑罰は終身刑や死刑ではありません。

 

それは、「ダムナティオ・メモリアエ」という刑罰です。

 

 

ダムナティオ・メモリアエ。

古代ローマで行われた刑罰。

極刑を越えた極刑。

元老院の支配体制に反逆した人物に対して、その人間の記録の一切を破壊し抹消する刑罰。

コインに彫られた肖像は削り取られ、記録に記された名前は消去される。

その一切の存在が「無かった」として、自らが遺したあらゆる痕跡を抹消される。

社会的な体面や名誉を重んじた古代ローマの人間にとって、最も重い刑罰とされました。

 

ダムナティオ・メモリアエ。

日本語で、「記憶の破壊」。

 

現代に生きる僕ですら、その恐ろしさに慄きます。

僕は「歴史に名を残したい」だとか「人々の記憶に残りたい」だとか、そういった中二病的願望を持っているので、なおさら恐怖を感じます。

 

仮に100人もの人を殺めた殺人犯がいたとして、そして彼が死刑を受けたとしても、何かしらの形で彼の記憶と記録は残るでしょう。

それが「良い」残り方かどうかについては議論の余地も無いでしょうが、他人の命を奪おうと、そして国家に命を奪われようと、その人が生きた事実は確かに残るのです。

 

しかし、このダムナティオ・メモリアエー記憶の破壊ーを受けたなら、自分という存在がこの世界に「いなかった」ことになる。

生きた理由と死ぬ意味が、無になってしまう。

 

なんて恐ろしいんでしょうか。

 

 

「誰かの記憶に残る」ということは、僕たち人間が歩む”人生”という壮大な旅の目標地点なのです。

 

「なんのために生きているのか」という問いに対しては、多くの解答があるでしょう。

夢を叶えるため。

社会の役に立つため。

子を育てるため。

もっと大局的な視点で、例えば生物学的に言うならば、ヒトという「種の保存」のため。

 

これらも全て、「自分の記憶を残す(≒誰かの記憶に残る)」に集約できるかもしれません。

他者との相互関係の中で自分という存在が意味を持つこと、とも言い換えられます。

それほどまでに、僕たちにとっては、記憶を残し、自分という存在を確立することが大事なのです。

 

 

ところで、現代に生きる皆さんも、この「ダムナティオ・メモリアエ」の行為者になっている、あるいは対象者になっています。

皆さんは潜在的に、その恐ろしさを既に知っています。

 

最も卑近な例を挙げましょう。

 

恋人と別れた後を想像してください。

何が起こりますか、何を起こしますか。

カメラロールから、二人が笑顔で映る写真を消去するでしょう。

誕生日に貰ったプレゼントを捨てるでしょう。あるいはメルカリで売るような賢い人もいるかもしれません。

初めて二人で観に行った映画の半券、だんだん距離が縮まっていくプリクラ、お揃いのニット、部屋に残していった化粧品、吸っていたマルボロ、今の延長線上にあると信じて疑わなかった未来について書かれた手紙。

このような全ての「記憶」を葬り去るでしょう。

あるいは、葬り去られているでしょう。

 

今頃元恋人は、別の男に元カレの人数を聞かれ、「2人くらいかな」と心象良く答えるような、そんな会話をしているかもしれません。

僕は、「くらい」にまとめられたのか。

はたまた最初から彼女の人生に「居なかった」ことになっているのか。

 

「こんな気持ちになるのは貴方が初めて」

「こんなことをするのは貴方が初めて」

「今までで貴方が一番好き」

「私には貴方だけ」

 

自分に向けられた言葉は、今では別の誰かに向けられている。

かつては確かに自分を指していた「貴方」は、今では別の人間を意味する言葉になっている。

 

二人で共有した記憶。

二人だけで共有した記憶。

そこには二人しかいない記憶。

そして、そこにしかいない自分。

 

その一切が、”はじめから無かった”ことになる。

そこには記憶も無ければ、何も無い。

 

これほどまでに残酷で、無慈悲で、悲しく、虚ろな罰があるでしょうか。

 

 

まあ、とはいえ、これは自分でも相手でもない第三者へ語られる記憶の話です。

相手の記憶から消えることはないでしょう。

思い出されることは減っていくかもしれない。

別の誰かで上書きされるかもしれない。

それでも、その記憶が”消える”ということはないでしょう。

 

なぜなら、思い出は忘れるものではなく薄れていくものだからです。

 

花が枯れ、彩りと香りを失っていくように。

写真が日焼けし、色褪せていくように。

 

思い出の輪郭がぼやけても、声や匂いや温もりを失っても、二人が居た記憶は確かにそこに在るのです。

 

 

人間は忘却の生き物です。

ですが、記憶し、言葉を話し、文字を書き、絵を描き、伝達し、残すことができるのも人間だけです。

それ故に、人間として生きるということは、誰かの記憶に残るということだと僕は考えます。

そこに生きる意味があり、死ぬ意味がある。

 

古代ギリシアの詩人ホメロスが遺した詩に、『オデッセイ』という叙事詩があります。

「オデッセイ odyssey」は、「長期の放浪。長い冒険。」という意味を持ちます。

あてもなく彷徨う悠久の旅、オデッセイ。

 

僕たちは、人生という壮大な旅、オデッセイを続けている。

生まれた時から始まり、死ぬときに終わる、長い長い旅路。

それは、記憶を巡る旅。記憶を残す旅。

そして僕もあなたも、記憶の旅人です。

 

なにせ息をしたその瞬間からたった一人で放り出された旅です。

辛いことの方が多いでしょう。

どこを目指せば良いのか、目的地も教えられていない。

自分が何者なのかも自らで答えを見つけなければいけない。

自分の辿った道のりが正解なのか、不安になったりもする。

生涯その旅路を共にすると約束した相手が突然離れていったりする。

しかし、そんな苦難を重ね、時には笑い、泣き、誰かを愛し、誰かに愛され、誰かを傷つけ、誰かに傷つけられ、そうやって歩んできた道のり、それがあなたの「記憶」であり、それ自体がこの旅の目的なのです。

 

僕も、あなたも、記憶の旅人です。

旅の途中のどこかで偶然出会うことがあれば、その時は語り合いましょう。

お互いの記憶を。

そうして、自らの記憶を残しましょう。誰かの記憶を残しましょう。

自らが生きた意味を残せるように。

ですからどうかその時には、よろしくお願いします。

それまで、お互いそれぞれの旅を続けましょう。